限りなくドドメ色に近い玉虫、もしくはなんとなく毒饅頭
なんかずいぶんごぶさたですけど、インパール的なプロジェクトは無数の死骸を積み上げながら今も続いていて、もはやパーやんも更迭されコヒマ的なちょっとした要衝っぽいとこ占拠してみたけどこれどーすんのさ、今後の侵攻拠点にできんのできないの?という局面を迎えています。「つか撤退するならいまじゃね?」ってセリフはもちろん思いつけても上申できません。
そんなこんなでまあもはや最前線をなし崩し的にささえざるを得なくなった僕としては、ジオング地上戦に導入するのはやっぱ無理があったなあ問題に直面しています。そりゃあメガ粒子砲バンバンぶっぱなして、やたら目立つボディで突っ込んできたらそりゃ最初の突破口こじ開けにはいいけどさあ、持久戦にはちょっとねえ…、つかぬかるみ突っ込んだら致命的じゃね、という状況です。そしてまあ案の定政治的ぬかるみにつっこんできちゃったよ、と。
どーにもこーにも玉虫色のご決裁がお好きな社風の中で、うねうねいろんなことを玉虫色にそめあげてきたツケが回ってきた感じです。どんな社内問題も解決策は「玉虫」。Aっていう玉虫にBっていう玉虫にCっていう玉虫、いろいろと玉虫とりそろえてございます。きっとうちの会社にオーベルシュタイン元帥がいたら、「AにはAにむいた玉虫が、BにはBに向いた玉虫がございましょう。」と言うに違いないくらいほんと玉虫いっぱい。
で、そんな玉虫キングダム(やだ…)の中で、こっちかわの端っことあっちがわの端っこに突然変異的に存在する、つきあげた拳に極論かかえたおっさん二人がなぜか対立開始…。
もう俺しらねえ、まじ知らねえ。もはや使い残した玉虫コマンドはなく、あっちの端っこにいるおっさんとこっちの端っこにいるおっさんをどう突き合わさせて抗戦させて片方ひっこめさすかに課題が収斂してしまった感じです。あーあ、めんどくせえなあ。
ま、前線部隊はそんなこんなで人員の新陳代謝という名の純減を行いつつ、決定的な局面に向けて戦闘継続中であります。
いい加減もうインパールというより、気分としては山本五十六チックなところに入ってきて感じです。
あと半年一年だったらなんとでも暴れまわってやるけど、その先のことなんて知らねえよ、まぢで。
せいぜん一年以内に派手な花火をぶちあげて、ぶちあげた直後くらいにプロジェクト破綻に向けて口火きったろかと思ってます。
冗談ですけどね、今日の記事全部。
wikipediaのこと
4年くらい前のある日、「卵かけご飯」に関する洞察にあふれつつも、どこかしらかわいらしい雰囲気の漂う記述を目にしたのが、確か出会いだったんだ。その記述が個人の手によるものではなく、多くの見知らぬ人々の集合知として成立していることを知るまで、ちょっと時間はかかったのだけど。ただ、その行為の集積自体がものすごく価値があり、かつ人類史的な重要性を持つことは直観的に理解できたし、素直にすごいなあと思ったんだ。
それからしばらく、僕はwikipediaになりたかった。多くのひとの善意と知識に内臓をまさぐられグレードアップされていくような、多少エロティックで啓蒙的な妄想のトリコになっていたんだ。むさぼるように項目を読み、そしてリンクをたどって行った。ハイパーリンクの存在がこんなに新鮮な感動にあふれている感覚は、まるで20世紀の商用インターネット黎明期にもどったような喜びですらあった。
そのwikipediaが、寄付を求めているという。
http://d.hatena.ne.jp/founder/20091126/1259166085
「極端なことをいうと人類はwikipediaを生み出すために生まれてきたのかもしれないと思う」。確かにそうかもしれないね。僕の抱いたあの観念は、まさに生まれてきた意義に近いものだったのかもしれないと思うもの。僕はwikipediaになりたかった。みんなの知性でいっそう輝きをましていく、人類の叡智の結晶としてのデジタルデータに。知ることの光に。
今のwikipediaがそこまで理想的な存在にはなっていないかもしれないとか、僕の妄想を強化してくれるほど、素敵な状態ではないかもしれないとか、そういうことはひとまず脇においておく。
それでも僕はこれを守りたいと思うから。あのあと一人で食べた「卵かけご飯」が、すごくおいしかったことが忘れられないから。とりあえずちょっとだけ、wikipediaを金銭的にサポートしてみることにした。
僕と80年代末期(という隠れ蓑のしたで高河ゆん)
たとえば岡崎京子のように、作家として肯定的に語られる下地がまああるエリアではできていて、その作品を好んでいることを表明することがある種のステイタスになっていたり、「ある時代」を振り返る上で語るに値する対象であるという認識が普及している作家ならいいのだけれど。
という言い訳の元、いまここで言及せずにいられないのは、「高河ゆん」の話だ。正直男子として「岡崎京子」が超好きです、というのはもはやそんなに抵抗はないが、「高河ゆん」が好きだというのは正直カミングアウトの領域である。なぜそれがカミングアウトとも言うべき重さ(笑)を持つかは、まあ分かる人だけわかってくれればいいが、端的に言うと「高河ゆん好きの男子、いままで出会ったことない。」という僕自身の経験に尽きると思う。ストーリー性や画風も含めて「男子」的な世界とは特殊な関係性を持つ作家である。
ここで「特殊な関係性」のような回りくどい言い方をしたのは、それが「単に遠い」という関係ではなく、むしろ高河ゆんという作家自身は「男子」的なものにも大きな影響を受けており、その作品世界においても「男子」的な要素は頻出するためである。ただその現れ方が多分に「非男子」的なのである。(とはいえ、決してBLなわけではない。)
その点において、高河ゆんの世界に入り込める男子というのは、マイノリティもしくは第三者的な視点で男子的な世界を突き放してみることができるタイプに限られるのだと思う。
この「世界を突き放してみる」というのは彼女の作品ではひとつのキーワードになっている。だからこそ「描かれた時代の時代性」が色濃く反映されていたり、特殊な命名センスを持っていたりしながら、逆説的に未だに忘れることのできない(とは言え非常に語りづらい)作家になっているのだと思う。突き放した視線の存在が、どのようなシチュエーションにおいても共感しうる作品の太い軸になっているのである。
だからこそ、僕はいまだに彼女の作品を愛してやまない。それが秘密の花園に咲く禁忌の花だとしても。
なんてことを雨宮まみさんのブログを見て思った。
id:mamiamamiya:20091122
とりあえず「源氏」と「アーシアン」一から読み直したい。
あ、80年代末期と本文がほとんど関係ねぇ…
私はラーメン屋の本質にたどり着いた
数年前、246沿い、オモサンと外苑前の間くらいに新しくできたラーメン屋における出来事である。
第一印象、厨房の人数明らかに多すぎ、配膳の人数明らかに足らなすぎな、何かが起きることをいかにも予感させる店であった。上記のような地代高いエリア柄、近隣のラーメン屋はぎりぎりの人数で運営していたが、その店は配置バランス上なんかあきらかに人手が浮いていた。にもかかわらず、オペレーション的に浮いてた厨房のおいちゃんおばちゃんは、誰も留学生っぽいウエイトレスを助けようとしない。そのためものすごい勢いでスタッフ間連携が悪く、個々人の丁寧な作業とうらはらに全体のプロセス進行は破綻寸前となっていた。
結果として、ニンニクラーメンチャーシュー抜きを注文した俺のとこには塩ラーメンがやってきた。しかし俺はそんなことに気づかない(ごめんなさい)。半分くらい食べてようやく注文間違ってることに思い至った。
ふと周りを見渡すと、、、、もののみごとな修羅場中。事態を飲み込めないウエイトレス、ぎゃあぎゃあ言うだけの厨房のおばちゃん。注文一個ずれただけでエライ騒ぎになってる、、っていうか、俺、微妙に肩身が狭い。なんせ俺の隣の隣には、なかなか塩ラーメンがこないお客さんがいて(結果何も食べず帰っちゃったよこの人)、斜め前には行き場を失ったニンニクラーメンチャーシュー抜きが鎮座している。シチュエーションだけ見ると俺が明らかに諸悪の根源である。
しかるに、そのような逆境でこそ、ひとは学びがたき真理にたどり着くことができる。
気づいたのだ、ラーメン屋にもっとも大切な要素であり、上記のラーメン屋に完膚なきまでにかけているもの。それは
ストイシズム だと!
ラーメン屋はストイックでなければならない。「〜ねばならない」という表現を滅多に使わない俺がここまで力入れていうのは、それだけの根拠があってのことである。
ラーメン屋は薄利多売かつ市場における競合相手が極端に多い商店である。よって、店の個性を打ち出すと同時に、人件費の削減・客回転率の向上などの店舗効率の追求も行わなければならない。この「個性」と「効率」を同時に追い求めるためのキーワードが、「ストイシズム」なのだ。
当然のことながら、成功するラーメン屋はその存在をもって、個々の「ストイシズム」を表現している。そう、ラーメン屋というのはラーメンを食すだけの空間ではない。この世界に体現されたストイシズムを感受するための空間なのだ。
ということで、いずれは世に問う予定だった(脳内)
「ラーメン屋におけるストイシズムに就いて」
の重要な考察ポイントをあえてここに抜粋する。ただし、すでに存在しない店舗や営業形態変わったらしいがあることは全力で無視。
一蘭 http://www.ichiran.co.jp/index.html
→ ストイシズムを極限までエンターテインメント化
・徹底的に孤独な空間を作り上げることで、ストイックであることを
エンターテインメントの領域にまで高めつつ、ちゃっかり回転率の
向上も確保して、成功。
吉村家 http://www.iekei.com/
→ トヨタもびっくりのカンバン方式的ストイシズム
・映画館みたいな総入れ替え方式による、オートメーション客回転
システムを作り上げ、その総帥として怒鳴るオヤジ(怖ぇ)が君臨。
客商売とは思えない恐怖支配のストイック空間を構築し、成功。
なんてったって家系総本山。
大勝軒 http://www.tai-sho-ken.com/top.html
→ 儲かっても決して改築しない孤高の存在感(が、再開発には負け移転…)
・たとえ客が何百人ならぼうが、いっこうに店を改築しない
茶の湯の道的ストイシズムを追及し、成功。ってかまぢで
昭和30年代から改修してないかの如くだった。
花やしきと共通するシンプルかつストイックなスリルがここに。
香月 http://www.kazki.com/
→ ここは公文の教室っすか!?的気合脳力ストイシズム
・客の注文をすべて店員の記憶力にゆだねるという
ブシドー的潔さ、すなわちストイシズムの美学を徹底し、
さながら店舗そのものを記憶道の道場空間とすることで、成功。
がんこラーメン http://www.01ch.com/ramen/ganko16th.html
→ 飲食店なんだから、黒い目張りはどうかと思うぜ!
・客を呼ぶ気があるのかわからない、黒い目張り。
そしていつやってるか全然わからない、空き家感。
これがストイックでなくてなんやと。でもなんか有名店。
こんな空間他の飲食業にはない!(よね?)
と、成功しているラーメン屋はかようにストイックなものなのである。
と、ゆうようなことを昔考えたことを、明和電機さんのブログみて思い出した。
http://maywa.laff.jp/blog/2009/09/post-85c2.html
ヴィンランド・サガがすごすぎる。
「プラネテス」の幸村誠の歴史モノ「ヴィンランド・サガ」の第8巻が出た。前作とはうってかわって地上を這いずり回る人間達と残酷描写で満載の血なまぐさい物語ではあるものの、幸村誠の作家としてのコアが「プラネテス」と並置することで逆に良く見える「歴史冒険漫画」の新作である。
で、そのへんの前置きはさておき、表紙オビにいきなり「アシェラッド死す」。
アシェラッドというのは、主人公トルフィンの親の仇にして、指導者、のみならず、物語の狂言回し的役回り兼物語を展開させる駆動力として、ここまで7巻にわたって非常に魅力的な悪役として君臨してきたすげぇキレる戦士にして隠れ王子様である(ネタばらしまくり…)。で、前巻終了時点では、バイキングの王子様かついで王様ぶったおすぜ!という展開を見せ、そのための策謀をめぐらし始めたところ…。そのアシェラッド、死んじゃうんだそうです!ってどう考えてもこの巻で最大級のネタバレいきなり買う前から…。
非常にがっくししつつ、とはいえその死に様に興味津々で読み始めたものの、うわ、なにこれ!アシェラッドの死なんてネタバレその1にすぎないじゃん!という急展開、っていうか、ここまで50話以上つみあげたものを、いきなり、そんな…!
もうこのエントリ前半でさんざん出したネタバレなんて全部ぶっとぶくらいの一大リセットで終了!!
これまでずーっとこの、ヴィンランド・サガを北海帝国がらみの歴史モノだと思っていたけれど、実はぜんぜん違うのかもしれません。
というか、よくよく考えてみれば「北海帝国の歴史モノ」ではないことは最初からわかっていたことなのだけれど、ここ数巻の異常なテンションに押され、そういう物語だと完全に脳内修正はいってたことに気づいた。幸村誠のストーリテリングおそるべし!
それはさておき、ようやく「物語の本筋」に入ったと思われるヴィンランド・サガ。このエントリのネタバレなんて関係ないくらいの面白さなので、読んだことないマンガ好きにはぜひ読んでほしい逸品。また今後の展開がどういう方向に行くのか、ぶっちゃけていうと神話になるのか歴史物語でふみとどまるのか、非常に期待大!
- 作者: 幸村誠
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/09/23
- メディア: コミック
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プチまとめ
なんかさっきからものすごく帯域狭い感じでアクセス遅いんすけど、2つ後ろの席のおさーんがなんかすげえいきおいで大容量コンテンツDLしてる悪寒。
ということで、今日も今日とて新幹線車内から更新中。
今日は備忘録。
つうことで「あー、俺、ニッポンのダイキギョーの一員になっちゃったんだなー」を痛感したここ2日。まあ社内研修受けてただけなんだけどさ。ここ数ヶ月の個人的目標喪失状態/仕事忙しくてそれにかまけ倒しちゃったよ、に対する自省を促されました。
研修コンテンツの一部であったパーソナリティアセスメントでは、あっさり「行動管理に合わない、よく言えば自由人、というか、他の一部上場企業ではめったに出てこないタイプですね。」と断罪されました。やっぱ向いてないんだよこういう仕事と会社、俺。しかるにそのような自由っぷりはなんらかの方向付けを与えておかないと、なんか人としてぐだぐだになっていくのはここ数ヶ月のなにやってんだ俺気分の基調となっているため、至急リフレーミングの要アリと認識を新たにした次第であります。
一方で、リフレーミングに寄与する学びについて。ほとんど研修とは関係ないところで。
・「一人で戦わない」
・人口動態変動にともなう市場環境の変化
・10年とかいう時間
しかしどっちかというと研修の目的を逆向きで学んでいるような…
…おおっと新幹線降りなきゃ!
忙しいのは趣味じゃない。
心を亡くすと書いて、忙しいっていうのはまあよく聞くおっさんの説教話(おっさんごめん)ではあるけれど、まあ忙しいと実際心以外にもいろんなものを亡くすもので。単純に睡眠時間削って、食ったり飲んだりする時間が短くなって、場合によっちゃ風呂の時間なんていうのまで亡くなっていく。まあそんな日常をずーっと繰り返しているので、そういう事態にはなれたもんだ、と言うのは簡単。
そういう状況下で、心とおんなじくらい亡くしちゃうとなんだかなあというのが自分の時間と自分の習慣だと思います。そうやってせっかく身についてきたレッスンとか、蓄積してきたディシプリンのごときものがあっさりと失われていくわけです。多忙な日常恐るべし。
とまあ、そんなこんなでずーっと更新さぼってた言い訳からはじめてみました。実際ここのところなんかもう紙をみるやいなや片っ端からToDoリストにしていくような忙しさで、ブログ書くような脳内リソースの余裕はとれませんでした。とはいえいまもコレ、新幹線のなかで書いてるんですけどね。N700系ばんざい!!
でもちょっとここ数日で、新しい趣味化しそうなネタを見つけました。いまさらながら自作PC。
いやあ、やればぜったいできると思いつつ、はまるとこわいんで避けて通ってはいたこの方向性。こないだ私用のデスクトップが壊れて、結局なんだかんだで自力で電源ユニット交換という解に至ったことがあり、あらためて、なんか自分でいじったものが動く!というキモチ良さに感づかされまして、ちょっとはまりそうな予感してます。
ていうか、修理に出したら1万こえちゃうものを、3000円でなおしちゃったよ俺!的なよろこびもあり。Windows7載っけてデュアルコアかクアッドコアのPC自分で組んだら楽しいんだろうな〜、と妄想しています。