僕と80年代末期(という隠れ蓑のしたで高河ゆん)

たとえば岡崎京子のように、作家として肯定的に語られる下地がまああるエリアではできていて、その作品を好んでいることを表明することがある種のステイタスになっていたり、「ある時代」を振り返る上で語るに値する対象であるという認識が普及している作家ならいいのだけれど。

という言い訳の元、いまここで言及せずにいられないのは、「高河ゆん」の話だ。正直男子として「岡崎京子」が超好きです、というのはもはやそんなに抵抗はないが、「高河ゆん」が好きだというのは正直カミングアウトの領域である。なぜそれがカミングアウトとも言うべき重さ(笑)を持つかは、まあ分かる人だけわかってくれればいいが、端的に言うと「高河ゆん好きの男子、いままで出会ったことない。」という僕自身の経験に尽きると思う。ストーリー性や画風も含めて「男子」的な世界とは特殊な関係性を持つ作家である。

 ここで「特殊な関係性」のような回りくどい言い方をしたのは、それが「単に遠い」という関係ではなく、むしろ高河ゆんという作家自身は「男子」的なものにも大きな影響を受けており、その作品世界においても「男子」的な要素は頻出するためである。ただその現れ方が多分に「非男子」的なのである。(とはいえ、決してBLなわけではない。)
 その点において、高河ゆんの世界に入り込める男子というのは、マイノリティもしくは第三者的な視点で男子的な世界を突き放してみることができるタイプに限られるのだと思う。

 この「世界を突き放してみる」というのは彼女の作品ではひとつのキーワードになっている。だからこそ「描かれた時代の時代性」が色濃く反映されていたり、特殊な命名センスを持っていたりしながら、逆説的に未だに忘れることのできない(とは言え非常に語りづらい)作家になっているのだと思う。突き放した視線の存在が、どのようなシチュエーションにおいても共感しうる作品の太い軸になっているのである。
 だからこそ、僕はいまだに彼女の作品を愛してやまない。それが秘密の花園に咲く禁忌の花だとしても。
 
 
 
 
なんてことを雨宮まみさんのブログを見て思った。
id:mamiamamiya:20091122
とりあえず「源氏」と「アーシアン」一から読み直したい。



あ、80年代末期と本文がほとんど関係ねぇ…