人間すげえ?


こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく


というコピペが巷を賑わしていますが、僕も発見後即、周辺のみなさんにほとんどスパムなイキオイで撒き散らしてみました。いやまあもともと認知科学好きなんですが、この文章は「研究の結果としての発見」と「発見の応用としての表現」がユーモラスに両立されていて、非常に面白いなあと思ったんです。

 この現象をまとめていうと、人間が「文章」として書かれた文字列を理解するにあたり、『先頭から順に一文字ずつ文字単位ベースで意味を編成し理解していく。』という方式はとっておらず、『文節もしくは単語を単位として意味を捉えて理解していく。その際の1単位の意味理解の方法は、連ねられた文字の順序よりも、文字の構成要素の把握が優先されている。』ということなんだろうと思います。
 たぶんこれって『脳のリソースを効率的に使う』ということの一側面だと思うのですが、ひとつの文節ナリ単語があるときに、『先頭から順にどの文字が使われているか把握しながら候補となる言葉をしぼりこみつつ、最後の文字にたどりついた時点でその語を同定する』よりも、『先頭と末尾の文字を把握しある程度候補を絞り込んで、残りの文字要素からその語を同定する』という多少乱暴なやり方のほうが経済的(速度も速いし疲れない)、ということから導かれた現象なのだろうと推測します。
 その代わり、この「経済的な読み/意味理解プロセス」はある程度以上慣れ親しんで言語でなければ成立しないと思います。その証拠といってはなんですが、僕のなかよしの「日本語ネイティブ・英語かなり達者・ベトナム語それなり」という女子は、
 
 
Aoccdrnig to a rscheearch at Cmabrigde Uinervtisy, it deosn't mttaer in waht oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoetnt tihng is taht the frist and lsat ltteer be at the rghit pclae. The rset can be a total mses and you can sitll raed it wouthit a porbelm. Tihs is bcuseae the huamn mnid deos not raed ervey lteter by istlef, but the wrod as a wlohe.
 
 
という、英語による同様の文章は完璧に理解できたそうですが、自分で作ったベトナム語の順序入れ替え文は(ベトナム語表記上のルールの問題もからむとはいえ)、それほどスムーズには理解できなかったそうです。

人間の脳のはたらきというか情報処理には、こんなような独自のルーチンやらなにやらがいろいろあって、時としてそれは僕らの直感的な予想と大きくずれていたりするようです。その意味では自分自身の感覚すら裏切るという点において『人間すげえ』と思います。

このブログでもたまに、そんなような、時としてなんでそんなことが起きるのかちょっと理解を超えていたり、ずいぶんいい加減にできてるなあという意味で驚かされる脳の情報処理関連の『人間すげえ』エピソードを紹介していこうかと思いました。
 
 
 
ま、僕自身の復習&再学習をかねて。